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終わらなかったから、忘れられなかったーー"未完"であることの価値

悔しさを抱えたまま生きる——“未完”であることの価値

最近、『火の鳥』の展覧会が話題になっています。手塚治虫が描き続けた未完の作品。完結していないからこそ、そこには余白があります。その余白に、読む人それぞれの想像が入り込みます。だからこそ、終わっていないのに、ずっと心に残り続けているのかもしれません。


そんなことを思いながら、ポッシブルワールド参加者の話を思い出していました。


限られた時間の中で、仲間とともに社会課題に向き合うという体験だったそうです。終了後、その方が何度も口にしていたのは「悔しかった」という言葉でした。


けれど、その“悔しさ”は、失敗や不満といったものではありませんでした。「もっとできたかもしれない」「もう一歩先に行きたかった」——そんな思いが、その言葉には込められていたように思います。


火の鳥


やりきれなかったからこそ、残るもの

おそらく、本気だったのだと思います。

自分ごとのように向き合ったからこそ、「悔しい」と感じた。そして、その悔しさが今もどこかで心の中に火を灯し続けている。そんなふうに感じました。


振り返ってみると、完結した出来事は意外とあっさり記憶の中から消えてしまうものです。でも、“未完”のまま終わった体験は、じわじわと心に残り続けます。すぐには言葉にできなくても、いつまでも引っかかっているような感覚があります。


その感じが、『火の鳥』と少し似ているような気がしました。終わっていないのに、終わったことにはならない。むしろ、続きを想像することで、読者が物語と関わり続けている。そんな作品です。


その体験もきっとそうだったのでしょう。未完のまま、参加された方の中に生き続けている。そして、それが今もじんわりと、次の行動の源になっているのだと思います。


終わらなかったから、続いていく

体験が終わった後も、何度かその話をされていました。熱く語るというよりは、どこか静かなトーンで。けれど、話の中には確かに熱が残っていて、「まだあの時間の続きを生きているのかもしれない」と感じさせられました。


その熱は、誰かに与えられたものではなく、自分の中から自然と生まれてきたものです。だからこそ、持続するのかもしれません。


完成されたものではなく、少しだけ開いたまま終わった。その余白が、次の一歩を誘っているようにも思えました。


未完であることは、悪くない

「やりきれなかった」と聞くと、どこかネガティブな印象を受けるかもしれません。でも、あのときの表情を見ていると、それが必ずしも悪いことではないように思えてきました。


むしろ、「やりきれなかったからこそ、まだ終わっていない」。その実感があること自体、とても豊かで、健やかなことのようにも感じました。


完璧に終わる必要はないのかもしれません。きれいに完結していなくても、人の中に残るものはある。そして、それがまた誰かの行動や言葉を生んでいくのかもしれません。


“未完”には、そんな力があるように思います。



 

大分県佐伯市で海藻の加工卸業や一次生産者の販促支援などを行なっている株式会社ベースの代表であり、元さいきあまべ食べる通信編集長の平川 摂さんに、初めてポッシブルワールド・ディスカバリーセッションに参加してみての感想をポッシブルワールド・ラジオで聞かせていただきました


そのラジオの一部から感じたポッシブルワールドを紹介させてもらいました




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